岩木川について ~岩木川物語~
     
水系名  岩木川水系
河川名  岩木川 
流域面積  約2,540k㎡
流路延長  幹川102km(支川 平川42㎞、支川 浅瀬石川44.2㎞)
灌漑面積  約360k㎡
流域内人口  約482,400人
流域関係都県  青森県

岩木川の姿
 岩木川は、青森県・秋田県境にある広大なブナ原生林が広がる白神山地の雁森岳(標高987m)にその水源を発しています。そこから流れる川「大川」が流下し、途中の暗門川と合流して、「岩木川」と名称が変わります。そして、諸支川を集めながら東に流れ、弘前市付近で大きく北に流れを変えます。その後、津軽平野に入り、平川、浅瀬石川などを合わせて、五所川原市付近からは平坦な低地をゆったりと北上しながら十三湖を経て、日本海に注いでいます。          

川の名前の由来
 古くは、岩木川は、大川、弘前川と呼ばれていたそうです。それが岩木川に統一された経緯は明らかではありませんが、岩木川という呼び名は、津軽の信仰の中心であった岩木山から引用されたものと言われています。「イワキ」は、神の鎮座する所である「イワクラ」と同じく、霊山信仰に基づく語源だとされています。
 岩木川は、今から約300年前までは、二筋に分かれていました。本川は、駒越川と呼ばれ、樋の口川と呼ばれていた支川は弘前城の西側を流れ、富士見橋下流地点で合流していました。
 十三湖は、十三潟とも呼ばれています。十三往来に「津軽大小の河水、凡そ十有三の派流、この地に落ち合いて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず」と記されています。十三を「トサ」と読んでいましたが、、江戸時代、弘前藩三代藩主津軽信義が土佐守となったので、「トサ」を避けて「ジュウサン」と呼ぶようになったとされています。

岩木川の恵み
 青森県の農産物として代表されるものは、「りんごと米」です。りんごは、明治の初めに導入されたものですが、青森県の気候条件に適したことと、栽培技術の向上と品種改良の努力により、今では全国一の生産量を誇るようになりました。そして、その生産量のほとんど(青森県全体の約84%)が岩木川流域で栽培されたものとなっています。
 また、稲作は、古くは弥生時代から行われていました。その後、大型機械が導入され、合理化が進んでいったことと、厳しい北国の自然環境でもおいしい米を作ろうという農民たちの長い間の努力により、発展してきました。そして、岩木川流域によるその収穫量は青森県全体の約56%となっています。
 このように、岩木川は農業と深く結びつき、さまざまな収穫をもたらしてくれる母なる川なのです。

洪水の歴史
 岩木川の洪水による水害は、古くは津軽藩時代永禄10年(1567年)から記録され、その数は百数十回にも及んでいます。特に、昭和50年8月、浅瀬石川、土淵川を含む岩木川筋が大きな被害を受けました。浅瀬石川では、上流の橋が次々崩壊し、黒石温泉郷が孤立状態になりました。また、昭和52年8月には、弘前市街の土淵川支川寺沢川が普段の二十倍もの川幅となり、家屋及び農作物に大きな被害をもたらしました。そして、犠牲者11名を出す大惨事となりました。最近では、平成16年9月、台風21号の影響により、豪雨が降り続き、複数のりんご園の冠水被害が発生しました。

治水事業
 岩木川における治水事業は、正保3年(1646年)津軽藩が五所川原市付近の蛇行部の修正を行ったという記録から始まっています。その後、多くの改修工事が行われてきましたが、近代治水事業の幕あけは明治時代になってからです。
 岩木川の治水事業は遅れていて、現代においても、平成16年9月出水では、中流部のりんご園で大被害を受けました。
 河川の改修、ダム建設、砂防設備の整備などにより、災害を未然に防いで健全な生活環境を築くことが治水事業のめざすものです。一方で、ゆとりや豊かさ、また自然への回帰志向が高まってきています。これからの治水事業には、うるおいのある美しい水系環境を創造することによって、より豊かな生活環境を実現することも求められてきています。
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